天王祭について
宵祭
尾張津島天王祭の車楽舟行事(昭和55年1月に国の無形民俗文化財に指定)
津島が誇る祭りの代表がこの尾張津島天王祭です。600有余年の歴史を持ち、まさに時代絵巻きと言うにふさわしい荘厳・華麗な川祭り。祭りは数ヶ月に渡って、様々な行事、儀式、神事が行われます。灯りと水の時代絵巻。幻想的な尾張津島天王祭は「日本三大川まつり」のひとつです。
宵祭は、二隻の舟をつなぎその中心に真柱を立て、そこに一年の月数十二個の提灯をつけ、半円形に一年の日数三百六十五個の提灯をつけます。
朝祭
朝祭は津島の五隻に、佐屋町市江地区の「市江車」が先頭に加わる。市江車には十人の若者が締め込み姿で布鉾を持ち、途中から天王川に飛び込み泳ぎ、津島神社に通じる岸まで渡る。その後、神社まで走って神前に布鉾を奉納する。
朝祭の舟(車楽舟)の最高部には、能装束を模してつくられた衣装をまとった人形が乗るが、津島の五隻中、先頭を行く当番車には必ず「高砂」が乗る。その他の四隻は毎年能番組が変わります。
尾張津島天王祭とは
平安時代には、朝廷の政争に敗れて怨みをもって死んでいった貴人が疫病、雷や火事を起こすものと信じられていました。この怨霊を鎮める儀式が御霊会です。御霊で有名な神は「北野天神」こと菅原道真です。
平安時代には祇園社の祭神牛頭天王も「祇園天神」と称され、京の人々から畏怖されていました。御霊会を起源にもつ牛頭天王系統の祭りは、牛頭天王の荒ぶる荒魂を鎮め、慰める目的で行われました。
伝染病の多くは夏に発生し、夏の酷暑を無事に過ごすことを祈願するために、牛頭天王を祀る神社では天王祭・祇園祭などの祭礼が行われるようになりました。京都の祇園社「八坂神社」の祇園祭のように、都市部では山鉾や山車・屋台を華麗に飾り、行列や歌舞をともなう風流が行われ、華美を競いあいました。
津島天王祭は「津島のお天王さま」とも呼ばれた津島天王社の祭礼であり、旧暦の6月14日・15日両日に行われていました。京都の祇園祭では山鉾巡行が行われますが、津島天王祭は川に船を浮かべて行います。それはかつて津島が伊勢と尾張を舟でつなぐ湊町だったからです。
尾張津島天王祭のはじまり
始まった年代は、確かな史料がなく、創始年代は明らかではありません。現存史料としては「大祭筏場車記録」(仮称)があり、大永2年(1522年)から車楽船の置物人形などが記されており、当時すでに祭りが行われていたことがわかります。これらのことから15・16世紀には始まったとされ500年以上の歴史があります。
尾張津島天王祭の舞台(津島川)
天王祭の舞台は、現在は天王川公園の丸池となっていますが、江戸時代の天王川(津島川)は三宅川、萩原川(日光川)が合流した川で、さらに佐屋川に合流し、伊勢湾につながっていました。
天王川には天王橋が架かっており、戦国時代、織田信長はこの橋から津島天王祭を観ました。津島天王社が鎮座していた地は「向島」と称され、江戸時代には津島天王社の神領(御朱印地)でした。